東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」を読んだ。(kindleで読んだ)
いい本だった。東さんの本は高度な議論をしているはずなのに、読みやすく、置いてけぼりにならない。対立軸のつくりかたも何度も繰り返されて分かりやすかった。複数の対立軸があるなかで、多様性や他者への寛容はありえるのかなど、いろんなことがクリアにみえてきた。
カラマーゾフの兄弟を(大学生のときに一度読んだきりなので)もう一度読んでみようかなと思った。
クリス・アンダーソンの「フリー」を読んだ。
ずいぶん前に買って積読になってたんだけどようやく読み終えた。無料の仕組みについてなんとなくわかった気がするし、この本が出てから10年近くたつけど、そこまで新たな展開もない。
そんな僕もフリーでブログを書いているし、購入するか検討中のソフトのデモ版をDLしようかなと思っている。
建築の設計の無料との関係はどうなのかなと考えたけど、住宅メーカーや工務店なんかは見積に設計費は計上してない(どこかに溶け込んでいる)からフリーだということになる。僕に設計を頼む人たちはわざわざ設計費を払って依頼している。
設計の仕事をAIが自動でやるような時代もくるんだろうな。しょうもない仕事はどんどん自動化して無料に近づけばいいと思う。
GA JAPAN 150 「総括と展望」を読んだ。
一番気になったのは西沢の「自分の物語」を持つ必要があるといった話。
自分の興味に引き付けて建築の設計をするのは設計者のエゴが出そうな気もするけど、逆に何もなければ誰が設計しても同じなので、そういうのもあるかもなと思っている。20年前くらいは非作家性などのキーワードをよくみた気がするけど、今は逆に振れてるのか、最近の大衆迎合的なワークショップ建築や、プロポーザルの提案にみる美辞麗句を並べたような内容のものへの抵抗か。
みんなの意見をまとめたらこうなりましたみたいな分かりやすい建築よりも、謎めいたものができたほうが面白いはずだし、建築はもっと難しくてもいいんだと思う。
ローランド・レイゼンビー(大西玲央訳)の「コービー・ブライアント失う勇気最高の男(ザ・マン)になるためさ!(英題SHOW BOAT)」を読んだ。
コービー・ブライアント 失う勇気 最高の男(ザ・マン)になるためさ!
コービー・ブライアントの伝記本で、コービーのおじいさんの話からはじまるとっても分厚い本でいつ読み終わるかなーと思ってたんだけど、おもしろかったのですぐに読めた(コービーが登場するまで長かったが)。
表紙に「NBAで最も好き嫌いが分かれた選手の生き様」と書いてあるんだけど、僕はコービーが活躍した00年代はあまりNBAを観てない時期(特に前半は)だったので、すごいのは分かってたけど、こんなにチーム内で衝突が多い選手だとは知らなかった。ただこの本を読むと、なぜそういった揉めるメンタリティにコービーが至ったか、それがコービーが活躍するためには欠かせなかったことなどよくわかる。
僕はずっとジョーダンの時代からずっとNBAはBS1で観ていたんだけど、今年から楽天の件があってBSでは観れなくなってしまったので、しぶしぶrakutenTVに加入した。いまのところ快適ではあるし、NBAが好きな人はrakutenTVやリーグパスに加入したりして観るんだろうけど、普通の人がなんとなくテレビをみていてNBAに出会うことはなくなったと考えるとほんとにこれがいいことかどうかは謎だなと思う。ただこれはJリーグとかプロ野球でも同じようなことが起こっているので、何とも言えない。BS1ではBリーグもやってるし。
「応答漂うモダニズム」を読んだ。
"モダニズムという巨船は失せ、大海原化し、モダニズムを支えてきたさまざまなコンテンツがポタージュ化して、その大海原の上を漂っている、つまりはモダニズムが漂っている"(p005)
という2012年に発表された槇文彦の「漂うモダニズム」に対する各建築家の応答集。
さらにこれら応答者に対する槇文彦の応答もこの本に収録されている。(その後残像のモダニズムも今年書かれた)
これからの建築はどうなるのかみたいな大きなテーマでこういった本に残る形での対話方式は今まであまりなかった。
槇さんの言う「ポタージュ化」した状況だと、「なんでもあり」になってしまって建築の善し悪しが分かりにくい。いいとかわるいとかが定まりすぎていても、それはそれで多様性がなく、不寛容な世界のような気がするので難しい。
応答の応答で槇さんが書くように「ある意味において、限りなく自由に満ちた時代に入った」というのは間違いないはずなんだけど…
こういった世界では「いきいき」した建築とか共感とかエコとかが共有可能なキーワードとして前景化してくる。
ただ、「いきいき」した建築とか、「共感」とかが新たな共有可能なキーワードだとすると、イオンとかツタヤが最強だというはなしになってしまって、それはそれでつまらないし、建築的な価値ってほんとうにそういうのだったかなと思う。
まちづくりとかワークショップにシフトしてきているグループもあって、数年前にメディアで散見した「つくらない建築家」みたいなキーワードも、つくらなかったら建築家でもなんでもないような気がするし、建築の専門性を持った人がワークショップなどを開いて使い方をみんなで考えるみたいなのは一見正しいような気がするけど、つくらなくなってしまっては建築の専門性も上がらないので、ただ単にワークショップを仕切る人になってしまうのでは。ワークショップの方向性が必ずしも正しいわけではない。「みんなで決めた方向性」にがんじがらめになってその後の計画がうまくいかないこともよくある。市民ワークショップみたいなのは、細かい意見を拾うのには向いているけど、大きな方向性を決めるには時間が短すぎる気がする。建築の寿命はどんどん長くなるはずなので、今使う人の意見に最適化されすぎるのが本当にいいのかどうか。(そもそも建築の身体化とかの問題って、もうしばらく前からあるような…)
こんなことを考えていると名作(時間を超えて万人がいいと思えるもの)ってこれからほんとに出てくるのかなと思う。
なんかやっぱりいい建築のあり方って一時のこうだからこうなったみたいな関係性とか共感をよぶようなものとかよりも、その関係性がなくなってもまだ価値があるようなものなんだと思う。