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美しい都市・醜い都市

五十嵐太郎の「美しい都市・醜い都市」を読んだ(kindleで)。

 最近、景観論(大きすぎてはいけないとか、色を統一しろとか、看板を減らせとか、文脈を読めとか)について、なんだか正解がよくわからんなと思っていて、この本はそれとは逆側の考え方だろうと思って、これを読んだ。

僕が最近かかわった仕事でデザインコードが抽象的な言葉で決められていたものがあった。そのデザインコードとやらはワークショップか何かで決められて、そのエリアに建つものはそれを守らないといけなかったんだけど、実際にいい感じになったかどうか、言葉のイメージにあったものができたかどうかは微妙な出来上がりだった。

やっぱりこういった場合は言葉で縛るより、センスのある誰かが責任をもって監修するべきだと思った。役所の人では具体的なデザインが言葉のイメージに合ってるかどうか判断できるわけないし、そもそも言葉のイメージにあっているかどうかよりも、それぞれの建築のバランスのほうがよっぽど大事なはずだし。

多様性を確保しながら、めちゃくちゃにならず、なんとなくバランスがとれてるってのが一番いいんだろうけど、やっぱり磯崎新の福岡ネクサスとか、内井昭蔵みたいなかんじで、めちゃくちゃセンスがある人が監修するしかないのだろうか。

そもそも古い町並みとか、集落の色が統一されているのは、現地でとれる材料をもとに建築がつくられていたからで、いろんな材料が手に入る現代において、そういうのにこだわったものは、時代に正直じゃないのかもしれないし、ノスタルジックでキッチュなただのテーマパークになってしまうかもしれない。

最近見た映画、ピクサーのカーズ2ででてくる東京はネオン看板だらけで、それが東京のかっこよさになっているし、この本でもソフィアコッポラや押井守とかの映画もそういっためちゃくちゃな感じが東京らしさになっていると書かれている。

逆に統一しまくった例として、平壌がでてくるんだけど、町並みは政治というか、思想というか、国の成り立ちの現れというか、なるほどと思った。ただ、これをコルビュジエとかのめちゃくちゃセンスがある建築家が監修したらすごくかっこよくなるかもしれないという怖さもある。そういうのってやっぱり条例みたいに言葉にはできなくて、定量化もできない、個人的な感性のようなものだということだろうか。個人的には管理的で統一感のあるものよりも、民主的=多様性の結果のめちゃくちゃのほうが退屈しなくていいかもなと思ってきた。

 それと、なんとなくやっぱり最近はかっこよさについて話をすることなんて少なくなってるような気がするけど(これについてはモダニズムの機能が自ずと美を導くという考えが原因とこの本に書いてあってなるほどと思った)、定量化できるものとか、色とかの記号的な操作じゃなくて、どういったものがほんとうにかっこいいのか、もっと言いやすい雰囲気になればいいなと思う。