去年のユリイカに連載されていた飯島洋一の『「らしい」建築批判』をまじめに毎月買って読んでいた。結局すぐ後に単行本になったのだが。
ユリイカ 2014年7月号 特集 ガルシア=マルケス -『百年の孤独』は語りつづける-
- 作者: 野谷文昭,ヤマザキマリ
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2014/06/27
- メディア: ムック
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単行本で加筆修正などがあったかもしれないが、 僕はユリイカに掲載されていたものしか読んでない。この連載は新国立競技場のザハハディド案への批判からはじまって、ブランド建築家(安藤忠雄や、伊東豊雄)によるアイコン建築の批判、資本主義に敏感に反応するアートマーケットが建築家をアーティストのように扱うこと(石上純也)への批判へと続く。
世間がブランドとしての建築家を求めるから、建築家は「らしい」建築(安藤忠雄ならコンクリート、ザハならぐにゃぐにゃ、SANAAならぺらぺらといったように)だと評価されるために美学を他の何よりも優先させてしまう。建築家が自己表現や、建築の展示的な価値のために無理をしてしまうといった指摘。
この連載では、建築専門誌も共犯関係にあると指摘している。有名建築家になるためには、建築専門雑誌とうまく付き合っていくことが大事だけど、建築専門雑誌自体の「延命」のためにも新たな建築家を生み出さないといけない。そういった関係が深まれば深まるほど建築は「社会性」から乖離していくという。
このたびの新国立競技場をめぐる問題について僕は新建築やGAが座談会などの特集を組まなかったことがずっと気になっていた。昔は、神代雄一郎からはじまって林昌二とかが反論した巨大建築論争ってのがあったのだが、あれはほとんど「新建築」誌上で展開された。ああいったことはもう現代では難しいのだろうか。やっぱり飯島の指摘するような共犯関係にあるわけだから、対立する意見を掲載することは難しかったのだろうか。
しかしここまで書いてみて、そもそも今の日本で建築家のもつ名前の威力ってどれだけあるんだろうなと思った。伊東豊雄とか石上純也のことをみんな知っているのだろうか。せいぜいカーサブルータスとかを読んでいる一部の人たちだけなんじゃないだろうか。
国立競技場が白紙になった前後のワイドショーとかをみていると、「デザインはなんでもいい」とか「プレイヤーが使いやすいのが一番」など、ブランド建築家によるアイコン建築なんて世間は求めていないようにみえるけどな。