中村文則の「私の消滅」を読んだ(図書館で借りた)。
途中まで主人公だと思ってた人がだれがだれだか分からなくなるところが、それがそのまま私はもしかしたら別の人間かもしれないといったことと重なってなんかすごいなと思った。
堀部安嗣の「建築を気持ちで考える」を読んだ。
前半は堀部さんが影響を受けた建築についての紹介。アスプルンド、カーン、ライト、アアルト、スカルパ、あとは日本のお寺など。
ライト以外のカーンやアアルト、スカルパの世代が近いのはやっぱりモダニズムと現代の間に何かいい時代があったとしか思えない。W・カーティスの本とかにはこの辺の人たちをクリティカルリージョナリズム(批判的地域主義)と呼んでいて、安藤忠雄とかもここに入ってくる。ライトについてはモダニズムに完全には乗っかっていない良さがあるのかもしれない。僕はこの辺の人たちの建築をひとつもみたことがなくて、本とかでみてかなりいいんだろうなということは分かるので、いつかいってみたい。
僕が独立した年にこの人の処女作「南の家」と「ある町医者の記念館」をみて、20代の時にこれをつくったことに驚いた。
僕もこの人のように建築と向き合いたいと思うし、こういった本を読むと自分も建築をやっていてよかったなと思う。
ギャラ間でやってた展覧会は行くかどうか迷って結局年度末の忙しさに負けて行けなかった。この本の最後に作品リストが掲載されてて見学できるものもあるみたいなので、また見に行きたいなと思う。
中村文則の「何もかも憂鬱な夜に」を読んだ。
今年はこの人の本ばかり読んでいる。
「どのような人間でも、芸術にふれる権利はある」
「人間とその人間の命は別だから」
だいたい暗い話なんだけど、どこか生きる意味を考えたり、生きていて大丈夫だと確認できたりする。
又吉が解説で書いていたように、「垂直に掘り進めてきた穴を横に広げる時代」にこういう小説を書いている人がいるんだなと思った。
この表現(垂直に掘り進めてきた穴を横に広げる時代)ってつまりポストモダン以降のことなんだと思うけど、建築だとどうなんだろう。
ひたすら新しいバリエーションばかりつくって(横に穴を広げるばかりで)全然穴は深くなってないのでは。
松村秀一の「ひらかれる建築」を読んだ。
何か新しい視点があるかと思ったけど民主化についてはそうでもなかった。
住宅メーカーなどに関する研究については豊富なデータがあるのでそこはおもしろかったんだけど、その先の時代のこと(2000年代以降の話)については聞いたことがあるようなことが多かった。
ストックが十分にあるわけだから、それをうまくつかうこと、新しいものをたてるよりいまあるもので使われてないものをいきいきとつかうひとたちがでてくることは大事だという話なんだけど。
僕も古いものの改修とかに関わることがあるけど、現行法を満足していないもののあつかいは悩む。古いものの補強、断熱、省エネのことなどを考えると、法的に改修義務がないものだとしても、建築士としてはなんだか積極的になれない。不動産屋なども責任持てないから敬遠されがちだと聞く。改修は金がかかるからと、そこをさぼっておいてあとで事故があったり、やたら電気代がかかったりして専門家の責任になると困るので、そのへんは使う人たちの責任のもとでやってもらうしかない。つまりそういった場合は僕は建築士として関わることはできない。
最近は「建築をしない建築」とかがポピュラーになってきて、微妙な操作の改造をやってみたり、地域を盛り上げたりするのをよく雑誌とかで見る。ワークショップをやったりして利用者を育てることはとても大事だということはよくわかるんだけど、それって本当に僕らがプロとしてやるべき仕事なんだろうかといった疑問は以前から大いに感じている。
今はリノベーションとかまちづくりとかをやっている若い人たちも、いまは仕事がなくて、できる範囲のことでおもしろいことをしたいと思ってそういうのをやっているだけで、建築の仕事が増えてきたらそうでもなくなるんじゃないかなと思ってしまうし、いつまでもそこばかり掘り下げて、本当に建築をしないとなると、それはもはや建築の専門家ではないから、まちづくりなどでも建築の専門家としてのアドバイスはできないのでは。
僕はもう少し建築そのものの力をまだ信じてやろうと思っているんだけど、もうそれは古いんだろうか…