ぺいちくのブログ

本と建築のブログです。https://twitter.com/paychiku

応答漂うモダニズム

「応答漂うモダニズム」を読んだ。

応答 漂うモダニズム

応答 漂うモダニズム

 

 "モダニズムという巨船は失せ、大海原化し、モダニズムを支えてきたさまざまなコンテンツがポタージュ化して、その大海原の上を漂っている、つまりはモダニズムが漂っている"(p005)

という2012年に発表された槇文彦の「漂うモダニズム」に対する各建築家の応答集。

さらにこれら応答者に対する槇文彦の応答もこの本に収録されている。(その後残像のモダニズムも今年書かれた)

これからの建築はどうなるのかみたいな大きなテーマでこういった本に残る形での対話方式は今まであまりなかった。

槇さんの言う「ポタージュ化」した状況だと、「なんでもあり」になってしまって建築の善し悪しが分かりにくい。いいとかわるいとかが定まりすぎていても、それはそれで多様性がなく、不寛容な世界のような気がするので難しい。

応答の応答で槇さんが書くように「ある意味において、限りなく自由に満ちた時代に入った」というのは間違いないはずなんだけど…

こういった世界では「いきいき」した建築とか共感とかエコとかが共有可能なキーワードとして前景化してくる。

ただ、「いきいき」した建築とか、「共感」とかが新たな共有可能なキーワードだとすると、イオンとかツタヤが最強だというはなしになってしまって、それはそれでつまらないし、建築的な価値ってほんとうにそういうのだったかなと思う。

まちづくりとかワークショップにシフトしてきているグループもあって、数年前にメディアで散見した「つくらない建築家」みたいなキーワードも、つくらなかったら建築家でもなんでもないような気がするし、建築の専門性を持った人がワークショップなどを開いて使い方をみんなで考えるみたいなのは一見正しいような気がするけど、つくらなくなってしまっては建築の専門性も上がらないので、ただ単にワークショップを仕切る人になってしまうのでは。ワークショップの方向性が必ずしも正しいわけではない。「みんなで決めた方向性」にがんじがらめになってその後の計画がうまくいかないこともよくある。市民ワークショップみたいなのは、細かい意見を拾うのには向いているけど、大きな方向性を決めるには時間が短すぎる気がする。建築の寿命はどんどん長くなるはずなので、今使う人の意見に最適化されすぎるのが本当にいいのかどうか。(そもそも建築の身体化とかの問題って、もうしばらく前からあるような…)

こんなことを考えていると名作(時間を超えて万人がいいと思えるもの)ってこれからほんとに出てくるのかなと思う。

なんかやっぱりいい建築のあり方って一時のこうだからこうなったみたいな関係性とか共感をよぶようなものとかよりも、その関係性がなくなってもまだ価値があるようなものなんだと思う。

死ぬほど読書

丹羽宇一郎の「死ぬほど読書」を読んだ(Kindleで)。

死ぬほど読書 (幻冬舎新書)

死ぬほど読書 (幻冬舎新書)

 

 伊藤忠の社長の読書論。

僕も学生のころから月4冊読むことにしているんだけど、ここ数年はそこまで読めてないし、死ぬほどももちろん読めてない。

ことしも残すところあとわずかだけど、積読になってるやつから片づけていこうと思う。とか言いながら先日図書館でまた本を借りてしまった。

西加奈子の「i」を読んだ。

i(アイ)

i(アイ)

 

  みんなが大変なときに、自分はぼんやりしててもいいのか、といったことがテーマだったように読めた。ちょっとずつ時間が流れて、ああこの小説の時間は震災にむかっていってるなと気づいたときに、なんかいやな感じがしてしまった。

震災がテーマなのがいやというよりも、ちょうど同じころに読んでたマチネの終わりにも、話自体は全然違うけど、同じように震災が登場してきて、またかと思わざるを得なかった。

ビニール傘

岸政彦の「ビニール傘」を読んだ。図書館で借りて読んだ。

ビニール傘

ビニール傘

 

 何人か登場人物が出てくるんだけど、どこからどこまでがどの人の話か分かりにくかった。というかわからなかった。多分狙ってやってるんだろうけど。特定の誰というわけでもなく。

この人が書くものはいくつか読んだし、ラジオに出てるのを聞いたりしたけど、結構好きなほう。 

 

教団X

中村文則の「教団X」を読んだ。図書館で借りて読んだ。

教団X

教団X

 

 

  アマゾンのレビューは星一つが多くてひどいもんだけど、僕はこれは面白いんじゃないかと思った。

中村文則さんの本はいくつか読んできたけど、この本は一番エンタメよりだった。
長いし、気持ち悪い話だけど、僕は結構ちょいちょいはさまれる松尾さんの宗教や宇宙の話が好きだった。それが何かの寄せ集めだといわれたらそうなのかもしれないけど、そういうものを集めることで何か(たとえば人間とは何かとか)に近づけるんじゃないかと思う。

マチネの終わりに

平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読んだ(図書館で借りた)。

 舞台が半分海外だったり、天才音楽家だったり、設定が嫌味な感じになりそうだけど、そこまでやなかんじはしなかった。
久々恋愛小説みたいなのを読んだんだけど、ここまですれ違うかーと思う展開だった。
マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

エリアリノベーション

馬場正尊+OpenAの「エリアリノベーション」を読んだ。

エリアリノベーション:変化の構造とローカライズ

エリアリノベーション:変化の構造とローカライズ

 

 「エリアリノベーション」と「まちづくり」がどう違うのか正直分からなかったけど、「まちづくり」という手垢のついてしまった言葉とは何か違ってちょっとかっこいい感じ、新しい感じを出したかったのかもしれない。

この本の中で紹介されている6つのまちの事例はどれもすごいし、僕が住んでいるところも地方で空き家がたくさんあるから参考にできることはたくさんありそうだけど、どれも属人的というか、スーパーマンみたいな人が中心にいたり、多くをボランティアの力に頼っていたりして、とてもまねできそうにないなとも思う。大変すぎてだれもやらないようなことをやっているからこそ、都市間競争にかてるのかもしれないけど。

一方で僕もまちづくりのワークショップに参加したりしたことがあるんだけど、謎のセミプロワークショッパーのような人たち(いろんなまちのまちづくりワークショップに参加している個人あるいはNPOの人たち)がたくさん参加していて、この人たちは一体何なんだろうか、どうなりたいんだろうか(まちづくりの中心的プレイヤーになりたいのかコンサルタントになりたいのか事業をやりたいのか)、謎だなと思った。まちづくりワークショップの闇をみたような気がして、やっぱり僕は僕の持ち場でがんばろうと思った。基本的には建築の設計だけやって、事業企画とか不動産とかはやらない。建築の設計をやってまちづくりの一部をお手伝いするといったことはあると思うけど。

空き家をリノベーションしたりすることって建築の技術的には割と簡単だったりすると思うけど(他の面で大変かもしれないけど)、やっぱりでかい建物を一からつくることのほうが難しいしおもしろいし専門性が求められるはずなので、建築のプレイヤーが減りつつある今、建築の人は仕事がある限り後者に力を注いだ方がいいのではと最近よく思う。まちづくりの中心的プレイヤーは建築の人じゃなくてもできるし、不動産の人のほうが向いているような気もするし。

空き家の再利用事業計画をワークショップの最後に、空き家の家主に提案するみたいややつが流行ってるみたいで、その事業計画をもとに実際に起業したり、家主もそれを受け入れたりしていると聞いた。2~3日で作った事業計画で起業したり、それに家を貸す家主って勇気があるというか、ちょっと狂ってるとしか思えない。ワークショップの当日は盛り上がってて、同調圧力というか、えーここまでやっててやらないのーみたいな雰囲気に流されてしまってないのだろうか。