國分功一郎の「目的への抵抗」を読んだ。
コロナ後の講演を2本まとめた本で、2本目のほうが「暇と退屈の倫理学」の延長のような話でおもしろかった。1本目は質疑応答が多めでそれもおもしろかった。
アガンペンの指摘する移動の自由の制限の危険さについては、普段からたいして移動していない自分にとっては実感がないけど、ヨーロッパの人たち(特に東ドイツにいた人たち)にとっては勝ち取ってきたものを失うようなものがあるのかもしれない。
チェスをするためにチェスをするような、目的から自由になることを忘れてはいけない、なぜなら手段や犠牲を正当化するようになってしまうから、というのは分かるけど、それを意識しすぎて(今自分は自由とか考えながら)チェスをしても楽しくないだろうし、健康のために運動するとか目的があったとしても、やってるうちに運動そのものが楽しくなったりすればそれはもはや合目的から離れて自由な気もする。
よく建築の設計課題とかで「多目的室」があって、無目的と同義と言われたりするけど、ほかの室名がついていると拘束力が出てきてしまう問題を思い出した。
今書いていて今日たまたま読んだ記事が結びついた。
青木淳の原っぱの話は最近読んだ訂正の話にもつながるような気もする。使われ方が描き替えられたり、人によって違ったり、新たに発見されたりするような。
P114にガンジーの言葉が引用されていて「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」とあって、知らない言葉だったけど、ガンジーやっぱりすごいなと思った。