ぺいちくのブログ

本と建築のブログです。https://twitter.com/paychiku

はじめてのスピノザ

國分功一郎の「はじめてのスピノザ」を読んだ。

読みやすい本だったし、「100分de名著」のスピノザの回を読む前に観ていたからすっと入ってきた。

意思もまた何らかの原因によって決定されていて、絶対的な意思や、自由な意思は存在しない。意思が一元的に決定しているわけではなく、行為は多元的に決定されている。これは重い責任をやたら感じてしまう、責任をだれかにとらせようとする現代の人にとってはちょっとこころが軽くなる考え方だと思う。

組み合わせとしての善悪、自然界にはそれ自体良くも悪くもなく、うまく組み合わさるものとそうでないものがあるだけ。活動能力を増大させる組み合わせをみつけて、自分の力を必然性に応じて表現すれば自由というのは、完全な自由意思による自由より気持ちよさそうな気がする。ただこれにはとにかく試行錯誤がとにかく大事で、4章5章の真理や神のはなしにつながってきて、精錬、熟考によって自分が変容していって神とはなにか、心理とは何かを自分で獲得するしかない。自分が自由になるために、自分の力を最大化できる組み合わせは何かということを、いろいろやってみて自分に合うものを見つけていくしかないというよく考えたら当たり前の話でもある。当たり前の話なんだけど、自分に合わないと思うことを強制させられて我慢して続けるのはどう考えても自由と反対になるし、やっぱり自由になるのは難しいかもしれないが頑張るしかない。そこを頑張る人にしか自由はないということでもある。

GAJAPAN186

毎年年末年始に読んでいるGA JAPAN の総括と展望を読んだ。

 

GA JAPAN 186

GA JAPAN 186

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今回は藤原さん、石上さん、百田さん。

冒頭掲載されていた石上さんの水の美術館は水の満ち引きが内部にもあってすごそう。

今までは定期的に本屋で新建築など建築雑誌をまとめてざっと眺めてだいたい把握していたつもりだったんだけど、コロナ渦でチェックするのもやめてしまって、すっかり流れも何も分からなくなってしまった。今回総括と展望で話にでていたものもほとんど知らんかったし、もはや流れとかどうでもよくなってきたかもしれない(自分的にも世間的にも)。

万博だけはどうにもよさがよくわからなくて、木造ででかいリングをつくって炭素を固定するっていうロジックもずっと建っているならわかるけど、会期後にリユース、リサイクルするとしてもつくって短期間でばらして運んだりすると燃料も使うしちょっと苦しい気がする。

中村文則の「列」を読んだ。

読み進めていると、列の世界と現実がよくわからなくなったり、そもそも列の世界ってなんなんだといったことも謎なんだけど、よくわからないままだったしそれでいいんだと思う。

サルの研究の話が出てくるんだけど、同種殺しはチンパンジーとヒトだけっていうのは改めて怖いし、人間はそもそも邪悪でほおっておけば争いあうっていうカントの話も本当かもしれない。

 

あなたの燃える左手で

朝比奈秋の「あなたの燃える左手で」を読んだ。

図書館で読んだ。sessionで倉本さおりさんが紹介していたので読んだ。図書館で借りた。この人の本ははじめて読んだけどおもしろかった。倉本さんが勧める本はだいたいおもしろい。

日本人が主人公で東欧が舞台。いろんな国の人が登場してきて、それぞれの言語がなぜか関西弁などの日本の方言として聞こえてくるのがなんかおもしろかった。

僕は日本以外住んだことないから全然分からないけど、ヨーロッパに住んでいたら言語の違いも方言の違い程度なのかもしれないし、接している国境の感覚や領土を奪われたりする感覚も自分の体が他人の体と接続しているような感覚なのかもしれない。

 

目的への抵抗

國分功一郎の「目的への抵抗」を読んだ。

コロナ後の講演を2本まとめた本で、2本目のほうが「暇と退屈の倫理学」の延長のような話でおもしろかった。1本目は質疑応答が多めでそれもおもしろかった。

アガンペンの指摘する移動の自由の制限の危険さについては、普段からたいして移動していない自分にとっては実感がないけど、ヨーロッパの人たち(特に東ドイツにいた人たち)にとっては勝ち取ってきたものを失うようなものがあるのかもしれない。

チェスをするためにチェスをするような、目的から自由になることを忘れてはいけない、なぜなら手段や犠牲を正当化するようになってしまうから、というのは分かるけど、それを意識しすぎて(今自分は自由とか考えながら)チェスをしても楽しくないだろうし、健康のために運動するとか目的があったとしても、やってるうちに運動そのものが楽しくなったりすればそれはもはや合目的から離れて自由な気もする。

よく建築の設計課題とかで「多目的室」があって、無目的と同義と言われたりするけど、ほかの室名がついていると拘束力が出てきてしまう問題を思い出した。

今書いていて今日たまたま読んだ記事が結びついた。

www.asahi.com

青木淳の原っぱの話は最近読んだ訂正の話にもつながるような気もする。使われ方が描き替えられたり、人によって違ったり、新たに発見されたりするような。

P114にガンジーの言葉が引用されていて「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」とあって、知らない言葉だったけど、ガンジーやっぱりすごいなと思った。

フィールダー

古谷田奈月の「フィールダー」を読んだ。

図書館で借りて読んだ。多分今年読んだ本のなかで一番の本。

文化系トークラジオLifeで話題になっていたので読んだ。

世の中のありとあらゆる矛盾が盛り込まれていて、それでいてちゃんと1つの話になってておもしろかった。

「この世界はめちゃくちゃで、矛盾だらけ」でリベラルしんどいと今年はずっと考えていたけど、この本の橘は同じ出版社という会社の中でいろんな立場の本や雑誌(週刊誌、文芸誌、インテリア雑誌、少年漫画)や意見があってどう筋を通すのかと問われても「筋を通さない」と答えて、それでいいのかもと思った。会社だけじゃなく、ひとりの人間も一つのルールや原理に無理に縛られなくてもいいのかもしれない。そもそも環境や立場によって意見がかわって当然で、ひとつの原理に統合できるわけがないのかもしれない。

犬や猫はかわいいけど、熊は人を襲うから殺すが人間本位なのかどうかちょっと自分には分からない。自然の摂理として熊に食べられてもいいというのも極端だと思うし、そもそもやられる前にやるも含めて自然かもしれないし。

橘が仕事とかやることいろいろいそいで片づけて夜の11時にゲームにログインしていつものパーティーでモンスターを倒しに行くのいいなと思った。僕がやっているのはスプラトゥーンで、いつも野良で味方も毎回違うけど、協力プレイで自分が自分のチームの役割をブキの組み合わせで立ち回りを判断して勝ったり負けたりするのが本当に楽しい。

児童福祉の研究者である黒岩が当事者でないことをコンプレックスに思う気持ちはちょっとわかる気がする。建築史家が建築のことを批評しても自分は設計全然できないじゃんと言われがちなのと同じ感じで。でも研究者や批評家がメディアで発言したりしてシーンをつくっていったりするわけだから、それはそれで実践者だというのは間違ってないと思う。

訂正可能性の哲学、訂正する力

東浩紀の「訂正可能性の哲学」、「訂正する力」を読んだ。

「訂正可能性の哲学」を先に読んでそのあとに「訂正する力」を読んだ。

テーマは同じで「訂正可能性の哲学」も読みやすかったけど、「訂正する力」はそれをさらに読みやすくしたり、時事問題などの具体例に多く触れてあって分かりやすい。

バスケはずっと同じバスケをやっているようで、すこしずつルールが変わっていっている。ショットクロックが短くなったり、3ポイントが遠くなったり、トラベリングの考え方が変わったり、NBAだとディフェンス3秒があったりする。どれもバスケを面白くするために変わったことばかり。社会もそれと同じように少しずつルールを変えてよりよくする。時間がたっていろいろ変わっても同じ社会が続く。革命とかリセットとかではなく。個人も同じように変わる。考え方が右から左に変わったっていい。間違えることもあるし、そもそも人を完全に理解することなんて無理だから、人に対するイメージはしょっちゅう変わる。

僕も仕事に対する考え方(その時点での暫定的な正解)はしょっちゅう変わるし変わらなければ成長もない。建築基準法も変わるし、気候など環境も変わるから当然ではある。あのときああしてれば失敗したり問題が起きなかったなと思うこともあったけど、何もやらなければ多分自分はなにも気づかない。

そういった意味ではインターネットはやっぱり厄介だなと思う。過去の自分の発言を今みることができたり、矛盾や間違いを突き付けられたりする。本や新聞よりもすぐ出てくるし時系列もよくわからなくなったりする。

以前トークイベントみたいなのに話す側で呼ばれたけど、絶対にやりたくなかったから断った。ビデオのアーカイブが残るし文字起こしもあった。そのときの自分と今の自分では考え方がずいぶん違うし、僕のことを知らない人がそれをみると、今の考えと違ったとしても、こういう人なんだなと思われてもしょうがないしそれを訂正することはかなり難しい。「訂正する力」に書いてあったようにもっと親密なコミュニティであればその人のイメージを「じつは・・・だった」といった具合に訂正していけると思うけど、1回だけのイベントとかだったらチャンスはないからこれからも行きたくないし、そもそも自分のことを誰も知らないようなアウェイな場で面白いことを言う自信もない。そもそもこの本を読むと、ある程度知っている人のトークイベントとかにいって、話を聞いてみたらもともと持っていたイメージと違って面白かった。みたいな経験はものすごくたくさんある。気になる建物を見に行ったり観光地に実際に行ってみたときとかも同じようなことがある。